2010連合平和行動in広島

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生き延びた被爆者の“使命感”に凄まじさ

下野市職員労働組合 若林達哉さん

(広島県原爆被害者団体協議会・坪井直理事長の被爆体験談を聞いて)
坪井氏の話は生々しく悲惨で、言葉には魂がこもっており、聴く人の心を捉えてやまなかった。彼の人柄に好感を抱かない人はいないだろうと思われるほど、明朗でとても地獄のような体験を潜り抜けてきたとは思えなかった。
彼は1945年の8月6日、被爆してから幾度も死の危険に晒されてきた。戦争が終わった後も、慢性再生不良貧血症、慢性虚血性心疾患(狭心症)、悪性腫瘍(大腸ガン、前立腺ガン)などの、原爆症に冒され3度危篤に陥ったという。

当時被爆した人は、一瞬で跡形もなく消し飛んだ人もいれば全身に火傷を負い、苦しみながら死んでいった人もいる。いったい何が生と死を分けたのか。ただ 運としか言いようがない。それを一番分かっているのは被爆した人たちで、彼らと亡くなった人々とは、深い連帯感で結ばれているのだという。生き延びた人 は、死んでいてもおかしくなかった。死んでしまった人の分も生きてやらなくてはいけない、原爆という恐ろしい兵器を二度と使わせてはいけない、と、これは 被爆し生き残った者にしかできない役割であるという使命感を帯びて生きてきたのだという。なんという凄まじさか。とても私には真似できそうもない。しか し、私たちにもできることはあると思う。それは彼らの想いを繋げ、核兵器の恐ろしさを語り続け、核廃絶に向け運動し続けること。

一人ひとりの力は微弱でも、一つにまとまれば大きな力が発揮できる。一人ひとりが核廃絶という方向を向き、力を合わせていけば将来必ず実現できると信 じ、努力し続けなければならない。そしてずっと続く平和を、私は願う。被爆して亡くなった人々のために。

被爆者の平和を願う訴えに涙

シャープ労働組合 伊東 晴美さん

熱線と爆風、恐るべき放射線により一瞬にして14万人余の尊い命を奪った原子爆弾が広島に投下されて今年で65年を迎えました。

今年の『原爆犠牲者慰霊式典』には、核兵器廃絶の実現を願う国際機運の高まりを反映し、国連の潘基文(バンキムン)事務総長、原爆投下国である米国政府代表としてジョン・ルース駐日大使、菅直人首相、過去最多65カ国からの参列がありました。

初日の大会では、被爆者の葉佐井博巳さん(80歳)から被爆時の状況とその後の体験談を伺いました。大勢の被爆者の皮膚がとけ「うーん、痛い、助けて」 「水を…水をください…」と助けを求め、最後には皆「お母さーん…」と言い残し命を落としていったと、悲惨な被爆状況と全世界の平和を願う涙の訴えに、私 は涙があふれ胸がつまりました。かろうじて生き残った多くの被爆者も、放射線被害や心に大きな痛手を受けたことで、現在も苦しんでいるそうです。

2日目は、原爆投下後も走り続けている被爆路面電車に乗り、連合広島の青年委員会の方が平和学習会を実施してくださいました。被爆者が高齢化(※)する 中で、若い人々が平和についての意識を失っていくことへの懸念、被爆体験の継承に力を入れて取り組むことの重要性を再認識しました。

核兵器は未だに世界で約2万1千発も存在しており、人類は今もなお核兵器の脅威から解放されていません。その1つでも使用してしまえば広島や長崎のように一瞬にして人々が築きあげた歴史や文化・緑を壊し、尊い命が奪われてしまいます。

唯一の被爆国で暮らす私たちが歴史から学び、『命の大切さ』と『平和』への取り組みを私たちが引き継いでいくことの必要性を再認識した三日間となりました。

(※)2009年3月末現在で広島市内の被爆者は約7万4千人、平均年齢75.6歳

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