平和行動in長崎  参加者の感想(3名)

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 連合の「2013平和行動in長崎」は、8月8日~10日の日程で行われ、連合栃木から3名参加しました。

長崎① 長崎② 長崎③

 

連合栃木 加藤 剛 事務局長

<平和長崎集会 会場:長崎県立体育館・メインアリーナ>

 外は酷暑ともいえる暑さの中、会場となった体育館入り口では男女数十名による高校生平和大使(任命者)が額に汗してカンパ活動を展開しています。原爆の記憶を受け継ぐ若者達のがんばりに心が洗われる気がしました。会場は体育館内、外の暑さを忘れる心地よさに安堵しながら全国各地からのぼり旗を掲げた構成組織、地方連合会、そして各団体が集結し集会が開始されました。その中でやはり「次世代への継承」として被爆体験者(奥村アヤ子さん)からのお話で、「子どもながらに一瞬にして親兄弟を失う悲しさは当時では計り知れない怒り、悲しみそして不安の連続だった。しかしこの経験を二度とさせないために、今こうして語り部として後世に伝えていくことが自分の使命である。」という言葉が特に印象に残っています。

 <長崎平和式典 会場:長崎平和記念公園>

 8月9日、長崎平和記念公園に原爆死没者遺族を含む世界各国より参列者を迎え、厳かに式典が進められました。そして、平和の鐘の合図で原爆が投下された11時2分参列者全員で黙とうを捧げました。続く田上長崎市長は『平和宣言』の中で、「今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に日本政府は署名せず、世界の期待を裏切った。このことは、二度と核兵器を使わせない、二度とヒロシマ・ナガサキを経験させない!という被爆国の原点に反する。」と唱っています。しかし、その後の安倍首相のあいさつではこの点について触れられませんでした。残念です。

 <ピース・ウォーク 会場:爆心地公園・平和公園他>

 連合長崎の青年委員会、女性委員会役員の皆さんにより8か所のモニュメント・碑を巡って「ピースガイド」をしていただきました。説明の中で印象に残ったのは、平和記念公園に建立された平和像への賛否です。大きなお金を使って像を造るより他にすべきことはあったのでは?との指摘があったそうです。

 <万灯流し 会場:浦上川>

 原爆犠牲者のめい福を祈る万灯流しに参加しました。万灯に各自で平和への願いを書きこみ、原爆投下された日、水がほしい!と水を求めた浦上川に流しました。万灯は夕暮れの中、淡い灯が長い列となって川面を飾っていました。

  最後に、二度と核兵器が使われず戦争がなくなり平和な世界となるよう私たち日本人は率先して活動をする義務があるのだと改めて感じました。

 

前野 澄子さん (日教組 栃木県教職員組合)

 社会や教育が右傾向していく中で、長崎集会への参加は平和について再考するための良い機会でした。

 ○第1日目 『連合2013平和長崎集会』

 基調講演は、2015核兵器不拡散条約(NPT)に関するものでした。5年毎の会議がセレモニー化していく中で各保有国がインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮と増えていく現実から脱却するために核兵器の「国家の安全」から「人の安全」という問いかけをしていました。つまり、核兵器の問題を市民の手に取り戻し「人間性」から訴えようという事です。これは新しい道を拓く(ひらく)のではないかと思いました。

 続いて、被爆者の訴えがあり、高校生平和大使から、構成詩「親子で綴る平和の願い」の発表がありました。これらは、次世代への継承を意識したものであり大切な事であると思いました。

 ○第2日目 長崎原爆犠牲者慰霊祈念式典

 平和祈念像のある広場に大きなテントが張られて、喪服の遺族の方々に、外国の方々、来賓席には政治家や外国の要人が見えられました。

 長崎の鐘の音と共にたくさんの鳩が放たれた空の下、世界で唯一の被爆者からのコーラスが流れました。平均寿命78才とは思えないほど、すばらしいハーモニーでした。

 特に長崎市長の田上富久氏による「平和宣言」は素晴らしかったです。「日本政府に対し被爆国としての原点に返る事を求めます」と言い切った勇気に敬意を表したいと思います。また、若者に対して、「被爆者の声を直接最後に聞ける世代である」と呼び掛けた事に同感しました。連合で働く多くの若者に聞かせたいと思いました。

 ピース・ウォークでは、原爆「落下」中心碑より始まって、原爆の爆風で吹き飛ばされ残った建物の一部や、平和の願いを込めて作られたたくさんのモニュメントを見学しました。そのうち、8か所は連合長崎の青年・女性委員会のガイドから説明を受けながら見ました。平和の泉の碑文がとても悲しく目に映りました。

 『のどがかわいてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくてとうとうあぶらの浮いたまま飲みました(「あの日のある少女の日記から」)』。と書かれています。

 ○万灯流し

 そのように水を求め人々が次々に入り死んでいった浦上川で行われた万灯流し。私も灯籠に「平和への願い」を込めて祈りながら流しました。

 

茂木 将弘 さん (基幹労連 三菱重工精密鋳造労働組合)

 今回、原爆の威力の恐ろしさを肌で感じるため、初めて連合の「2013平和行動in長崎」に参加しました。長崎空港に到着して長崎市内に移動する高速バスの車窓から長崎市内の風景を見て、港を中心に周りを山が囲み、港から丘にかけて急激に立ち上がる地形の上に発展してできた長崎の町に原爆が投下された時、長崎市内から隣の町に逃げようとした人たちや、隣の町から長崎市内に救援・救護のため入ろうとした人たちは、海と山に挟まれた特有の地形により、移動や救援活動が大変だっただろうと思いました。長崎に着いて最初の式典である「連合2013平和長崎集会」では、被爆者の訴えで長崎平和推進協会 継承部会 奥村アヤ子さんの被爆の様子の話が心に残りました。平和行動の移動中に長崎市内に流れる川を見て、奥村さんの話であった「のどがかわいてたまらなく、水をもとめて川に多数の人が押し寄せました。」とありました。長崎市内の川を見ると川沿いの歩道から川の水面まで約2~3mの深さがあり、原爆により全身熱傷で負傷した人たちが生きるために川に降りて行ったと思うと言葉に表せません。2日目、ホテルから「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」まで、移動した路面電車の車窓から長崎市内の自治会や会社などによる小規模の式典が開かれているのを見え、親子で参加されている姿が、8月9日のことを忘れないように継承しているように見えました。

「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」では、原爆投下の11時2分に平和公園内にある「長崎の鐘」が鳴り、長崎市内も防災サイレンが響き、参加者全員で黙とうを捧げました。長崎市長、田上富久市長による「長崎平和宣言」が宣言されました。その中で今年4月にジュネーブで開催された核不拡散条約再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に日本政府が署名しなかったことにふれられました。日本政府が核兵器の使用状況によっては認めるという姿勢を示してしまったことに対して二度と世界の人々に被爆経験をさせないという、世界で唯一の被爆国「日本」として、先頭にたち核兵器をなくすという姿勢を見せてほしかったです。

 連合主催の「ピースウォーク」では、原爆投下中心地公園に集まり、平和公園と原爆投下中心地公園にある8ヶ所の碑や遺跡を巡りました。原爆投下中心地公園の脇の坂にある「被爆当時の地層」を見て、公園の上空約500m付近で原爆が爆発し、爆風により真下にあった家などが押し潰され、何層にも布団・茶碗・炭化した衣服などの日用生活品が地層に埋まっているのを見て、原爆の想像できない程の破壊力を思い知らされました。

その夜、長崎の平和行動最後の行事「万灯流し」を長崎市営陸上競技場に集まり、参加者一人一人それぞれが灯ろうに平和への思いを書き、浦上川に流しました。流したあと川沿いの歩道から地元の人たちと灯ろうを見つめ、当時、水を求めて川で亡くなられた方々に哀悼の意を捧げました。

最終日は、午前中に帰路につくため、朝食後にホテルの前の長崎港ターミナルに行き、展望デッキから長崎市内を一望して見る事にしました。集会で頂いた資料や原爆資料館の写真で見たような原爆投下後の焼け野原となった町の風景は、68年の時が経って、今は、ビルや教会、家など多くの近代建築物が立ち並ぶ風景に変わっています。その長崎の街の人々の灯りが作る夜景が、世界新大夜景に認定されるなど、町を復興させた長崎の人々の力の凄さを感じました。

 最後に、二泊三日の短い時間でしたが、原爆が多くの人の命を奪い、多くの人々の心と体を深く傷つけたことを、決して忘れず、決して繰り返してならず、世界で唯一の被爆国「日本」の国民として世界に核兵器廃絶を発信していきたいと思いました。 

 

 

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